2016年11月09日 04:59
明治26年(1892)日本人として初めての別荘が、海軍大佐八田裕二郎によって建てられた。八田は、東伏見宮の随行員としてイギリス・フランスに旅行し、二十二年に帰朝したが、健康を害していた。ヨーロッパのアルプスでの高原療養を見聞していた彼は、北海道、日光、箱根にと空気の清涼な土地を求めたが、地形の広さ、湿度、交通上などの条件を満たさなかった。
火山灰に被われた標高一〇〇〇メートル近い軽井沢の清涼で湿度の低い空気と、南に開かれた地形や乾燥の早い土地は、オゾンが多く彼の健康を増進させた。軽い草履にステッキという姿で、散歩をするのに適した草原が広がっていた。八田は、モンブランにも勝る避暑地と思って、旧軽井沢の西南の端に別荘を建てた。軽井沢で健康を取り戻した彼は、日本赤十字病院長の橋本綱常やドクトル・ベルツとともに、夏の転地療養に高原の軽井沢へ別荘を建てることをすすめた。外国人ばかりでなく末松謙澄・三井三郎助・樋上専次郎・江木衷・佐々木政吉らが明治三一、二年ころ別荘を建てることになった。
佐々木政吉が軽井沢に別荘を造ったのは、明治二十四年であるから、三十六歳で、東大教授の時代である。軽井沢草分けの一人で、当時高価といわれたが、坪当り、二十五銭の時代であった。
三十六歳の時、ハイカラで、カイゼル髭をはやした大学教授様が散歩している姿をみて、軽井沢の土地の人は「ローマ法王」という緯名をつけたという。
晩年、大森山王の別邸に隠退した後も、軽井沢を愛し、よく避暑に行き、軽井沢銀座を散歩したという。その頃、芳子賢夫人は、老体を案じ、長年奉公の忠僕三吉を見張り番として、見えつ隠れつ後から随行させていた。
昭和九年、佐々木政吉八十歳の時、家庭の中心人物であり、一族の中心でもあり令夫人賢夫人のほまれたかかった芳子夫人が、六十八歳で逝去し、翌年、養母の峯子未亡人が八十四歳で逝去してから、佐々木政吉もがっくりした。
大森山王の別邸はこれより急に淋しくなったが、当時三代目院長佐々木隆興や梨喜子夫人、孫達が遊びに来るのを楽しみにして幸福な晩年であった。
昭和十四年七月、佐々木政吉は、大森山王の別荘で、ラジオ放送を聞いて、世界の情勢に一喜一憂の生活であった。
或る日、感冒の気味で、ねている所に可愛がっていた初孫の佐々木洋興(現杏雲堂理事長)がいよいよ出征することになって、来訪した。孫の凛々しい軍服姿を見て、大いに喜び「これは立派になったものだ。体に気をつけてしっかりやってきなさい」と激励した。洋興は「はい、では祖父様、往って参ります」と、うしろ髪をひかれるお見いで出立してしまった。
最愛の孫の別離にがっくりしたのか、その夜半より発熱し、三日目に不帰の人となった。享年八十五歳であった。