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2017年03月12日

旧軽井沢郵便局に先代の建物があった。



明治44年に建てられた旧軽井沢郵便局舎は、明治四十四年館として軽井沢タリアセンの中に移築されていることは有名です。

ご覧になった方も多いのではないでしょうか。

その建物の移築前の位置は、今の軽井沢観光会館のところと言われていますが、上の絵では位置が異なっていますね。

その建物の前に先代の郵便局があったようです。

明治32年が軽井沢郵便局の開設の時期ですが、その時の建物がこの絵の建物と同じなのかは分かりませんけど、この絵では前の建物も明治四十四年館と同様シンメトリーな建物だったことが分かります。


  


Posted by 冬苺庵 at 18:15Comments(0)

2017年01月08日

肥田浜五郎の軽井沢別荘



肥田浜五郎も早くから軽井沢に別荘を設けた人物です。

肥田浜五郎は、豆州肥田氏の末裔で、韮山代官江川太郎左衛門英龍の侍医の子。英龍の手代見習となり、江戸で伊東玄朴に蘭学を学びました。

長崎海軍伝習所第二期生となり、長崎海軍伝習所では機関学を修めた後、咸臨丸の蒸気方(機関長)に選ばれ、山本金次郎(副長)、岡田井蔵、小杉雅之進(機関方見習士官)を率いて太平洋往還を成功に導きました。この際、体調がすぐれない艦長勝海舟に代わり、肥田や小野友五郎(測量方)、浜口興右衛門(運用方)が操船を主導したと言われています。

明治政府では、岩倉使節団にも加わり、岩倉使節団理事官として欧米各国を歴訪しています。

肥田が明治のいつ頃に軽井沢に別荘を構えたのかは不明ですが、明治22年に亡くなっていますので、その前ということになるでしょう。肥田の別荘も野沢源次郎によって大正時代に買い取られた土地の中にあったものと思われます。

  


Posted by 冬苺庵 at 23:16Comments(2)

2016年12月11日

川田龍吉の軽井沢別荘



川田龍吉は、土佐の人で父親が日銀総裁となり男爵となったことから、父の死後それを受け継ぎ、男爵となりました。

男爵芋の男爵とは、この川田男爵のことで、元々はイギリスに留学した船舶機械技術者でしたが、明治30年に横浜船渠を設立して社長となり、更に函館船渠の立て直しもする傍ら、函館近郊の七飯で農場経営をし、そこで男爵芋(アイリッシュ・コブラーIrish Cobbler別名ユーリカEureka)を栽培したというのが、男爵芋の始まりなのです。

その川田龍吉は、明治31年に軽井沢に別荘を設け、明治35年、函館よりも先に農場を開いています。農場は、200ヘクタールにも及び、高原野菜を栽培したと言われています。

しかし、函館での農場経営に注力するためか、大正4年に野沢源次郎に土地を譲ってしまいます。広大な野沢源次郎の開発地には、元は川田龍吉の所有地だったところがあるのです。








  


Posted by 冬苺庵 at 10:21Comments(1)