川田龍吉の軽井沢別荘

冬苺庵

2016年12月11日 10:21



川田龍吉は、土佐の人で父親が日銀総裁となり男爵となったことから、父の死後それを受け継ぎ、男爵となりました。

男爵芋の男爵とは、この川田男爵のことで、元々はイギリスに留学した船舶機械技術者でしたが、明治30年に横浜船渠を設立して社長となり、更に函館船渠の立て直しもする傍ら、函館近郊の七飯で農場経営をし、そこで男爵芋(アイリッシュ・コブラーIrish Cobbler別名ユーリカEureka)を栽培したというのが、男爵芋の始まりなのです。

その川田龍吉は、明治31年に軽井沢に別荘を設け、明治35年、函館よりも先に農場を開いています。農場は、200ヘクタールにも及び、高原野菜を栽培したと言われています。

しかし、函館での農場経営に注力するためか、大正4年に野沢源次郎に土地を譲ってしまいます。広大な野沢源次郎の開発地には、元は川田龍吉の所有地だったところがあるのです。