2016年10月22日
本間英一郎は軽井沢の恩人
ショー師とディクソン先生が軽井沢を訪れる前年の明治18年に横川まで鉄道が敷設されました。
技師として、その時の工事責任者となったのは、本間英一郎でした。
また、その後、本間は、直江津側の方も任させ、明治21年12月には軽井沢駅までの鉄道開通に漕ぎ着けます。
残る横川軽井沢間ですが、まだルートが決まっておらず、そのため軽井沢駅は仮設備で開業したそうです。
ルート案には軽井沢駅を通らないものも含まれており、ショー等も越えた和美峠を通り軽井沢駅は通らないルートで決まりそうになりましたが、本間が国道に沿った碓氷峠ルートの方が工事の資材運搬に便利で、国道を走っていた馬車鉄道も利用できる等の有利性を説いて、軽井沢駅通過ルートを採用させたというエピソードが残されています。
こうして、明治26年4月1日、軽井沢駅を通過する形で東京からの鉄道開通と相成るわけでして、本間様々ということになるでしょう。
本間英一郎は、ショーらと並ぶ、軽井沢にとっての大恩人なのです。
技師として、その時の工事責任者となったのは、本間英一郎でした。
また、その後、本間は、直江津側の方も任させ、明治21年12月には軽井沢駅までの鉄道開通に漕ぎ着けます。
残る横川軽井沢間ですが、まだルートが決まっておらず、そのため軽井沢駅は仮設備で開業したそうです。
ルート案には軽井沢駅を通らないものも含まれており、ショー等も越えた和美峠を通り軽井沢駅は通らないルートで決まりそうになりましたが、本間が国道に沿った碓氷峠ルートの方が工事の資材運搬に便利で、国道を走っていた馬車鉄道も利用できる等の有利性を説いて、軽井沢駅通過ルートを採用させたというエピソードが残されています。
こうして、明治26年4月1日、軽井沢駅を通過する形で東京からの鉄道開通と相成るわけでして、本間様々ということになるでしょう。
本間英一郎は、ショーらと並ぶ、軽井沢にとっての大恩人なのです。
Posted by 冬苺庵 at 20:52│Comments(0)