2016年10月26日
軽井沢リゾートホテルの開闢(万平ホテル・軽井沢ホテル・三笠ホテル)
日光金谷ホテルには敵いませんが、軽井沢では、明治の早い時期にリゾートホテルが成立しました。
万平ホテル
明治27年に開業した亀屋ホテルは、旧中山道の宿場であった軽井沢銀座の郵便局付近にあったと言われています。
江戸時代初期から続いた軽井沢宿の旅籠であった亀屋をその場所でホテルに改装。1階に4部屋、2階に9部屋の合計13部屋の宿でしたが、まだ畳敷き、部屋と部屋の間は襖だったそうです。
明治26年にアプト式鉄道が出来て軽井沢・横川間が開通すると東京から多くの避暑客が訪れるようになっていき、亀屋ホテルは繁盛しました。
明治29年には、「亀屋ホテル」から「萬平ホテル」へ改名しますが、明治35年、更に規模を拡大し本格的な西洋風ホテルとするために、桜の沢と言われた現在の場所に移転。22室になったそうです。
その時の建物は、三笠ホテルの棟梁と同じ、小林代造によるものだったそうです。
軽井沢ホテル
万平ホテルが、亀屋時代から存していた宿場街の軽井沢郵便局のあたりから桜の沢に移転する2年前の明治33年、佐藤万平の親戚の佐藤熊六が軽井沢ホテルを開業します。
軽井沢ホテルは、今はなく、余り知られていません。本陣があった場所にあったそうで、軽井沢最大のリゾートホテルになりましたが、戦争に入る前に潰れてしまいました。今のチャーチストリート付近と思われます。
軽井沢ホテルは、立派なホテルだったそうで、明治38年の増築後は客室数53室になりました。大きな広間や大食堂を有しており、立地も良かったのでしょう、軽井沢の社交場となっていったそうです。
芥川龍之介は、軽井沢ホテルの青い応接室と呼ばれた広間を気に入り、堀辰雄や室生犀星らと文学談義を交わしたと言われています。
三笠ホテル
音楽家山本直純の祖父の山本直良は、三笠山のふもとに土地25万坪を購入しましたが、当初考えていた牧場を断念し、豪華なホテルを建てます。明治39年に開業した三笠ホテル(国の重要文化財)です。
このホテル建設にあたって監督したのは佐藤万平でした。山本は万平に現地のことは任せたのでしょう。設計は、岡田時太郎ですが、棟梁は、桜の沢の当初の万平ホテルと同じ小林代造が仕切りました。 続きを読む
Posted by 冬苺庵 at
20:23
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2016年10月25日
ディクソン先生が育てた万平ホテル

ショー師は、寂れゆく軽井沢宿に別荘を建て、他の宣教師などの外人を集め、避暑に外国人が集う別荘地にしていった。
別荘都市、軽井沢を構築していくことに大きな貢献をしましたが、一方、夏目漱石も教えた帝国大学教授のディクソン先生は、 自分の別荘は設けず、宿のサービスに厄介になりました。
宿は、江戸時代からの旅籠のままであり、西洋人のためのサービスはありません。ディクソン先生は、ベッドや風呂などの風習やパンなどの食べ物を宿に教え、西洋流の生活様式やホテル文化を軽井沢に定着させることに貢献しました。
ディクソン先生が、西洋の風習を教えたのは、亀屋の主人の佐藤万平でした。それにより、軽井沢にリゾートホテルを誕生させたというわけです。
亀屋は、創業が1764年(明和元年)に佐藤万右衛門が旅籠を開業したのが起源と言われ、既に百年以上の歴史がありましたが、明治になり寂れ、碓氷新道の開通によって旅人のルートから外れ、殆ど休業状態だったと言われています。
そこにショー師とディクソン先生が現れました。明治19年の春に軽井沢を訪れた二人が泊まったのが亀屋だったのです。
その夏に二人は再訪し、避暑生活を軽井沢で送るのですが、ショー師はつるやに、ディクソン先生は再び佐藤万平の亀屋に厄介になり、これは長年続いて行きます。
万平は、こうしてディクソン先生との仲が続いて行ったことで西洋の風習を学び、西洋のホテルのサービスを身に付けていき、ついには旧来の旅籠を改め、軽井沢を訪れる西洋人のための西洋風の宿を目指すことを決意します。
当時万平は、県庁の工事監督の仕事をしていたそうですが、それを辞めて、ディクソンに教えて貰った通りパンを焼き、牛乳を絞り、魚のフライを作って、西洋人のお客に供するホテルを営んで行くことになるのです。
鉄道開通後の明治27年に、佐藤万平は亀屋ホテルを開業。今の万平ホテルが誕生します。
Posted by 冬苺庵 at
07:24
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2016年10月23日
ショー師とディクソン先生
明治19年に避暑地軽井沢を発見したショー師とディクソン先生は、歳が10才違ったそうです。
ショー師のほうが歳上で、もともと、ディクソン先生の兄のW.G.ディクソンとショー師は親交があったとか。
ショー師はトロント生まれでしたが、ディクソン先生はスコットランドのペイズリー生まれで、セント・アンドルーズ大学を卒業。卒業後来日し、明治12年から19年まで東大工学部の前身の工部大学校で英語と英文学を教え、その後6年間は、東京大学が工部大学校を併合して帝国大学になりましたので、帝国大学で夏目漱石らを教えました。
当時はまだ京都の帝大はなく、帝国大学といえば東京の本郷の帝大でした。
夏目漱石もディクソン先生に連れられて軽井沢を訪れたのでしょうか?
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ショー師のほうが歳上で、もともと、ディクソン先生の兄のW.G.ディクソンとショー師は親交があったとか。
ショー師はトロント生まれでしたが、ディクソン先生はスコットランドのペイズリー生まれで、セント・アンドルーズ大学を卒業。卒業後来日し、明治12年から19年まで東大工学部の前身の工部大学校で英語と英文学を教え、その後6年間は、東京大学が工部大学校を併合して帝国大学になりましたので、帝国大学で夏目漱石らを教えました。
当時はまだ京都の帝大はなく、帝国大学といえば東京の本郷の帝大でした。
夏目漱石もディクソン先生に連れられて軽井沢を訪れたのでしょうか?
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Posted by 冬苺庵 at
20:53
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